弘法大師(空海)とカリン
香川県仲多度郡まんのう町はカリンの町として有名であるが,これには空海が大きくかかわっている。
まんのう町には日本最大の灌漑用のため池である満濃池がある。「満濃池関係資料集」によれば,満濃池は当時真野池と呼ばれ,創築されてから百十年を経た弘仁九年(818年)5月7日の洪水で堤防が決壊した。翌年,讃岐の国は大干ばつに襲われ,さらに821年にも干ばつという,うち続く自然災害に,農民の生活は困窮を極めていたことが記されている。
資料によれば,当時の国司清原夏野が池の修築を朝廷に申請し,築池別当として路真人浜継(みちのまびとはまつぐ)が派遣されてきたが,工事は一向にはかどらぬまま経費も底をつき,工事は頓挫してしまった。
そこで,灌漑地域の人々は連名で讃岐出身の空海の派遣を懇請した結果,弘仁十二年(821年)4月に朝廷から許可がおりた。このとき空海は48歳であった。
空海略年表 | |||
西暦 | 年号 | 記事 | 年齢 |
804年 | 延暦23年 | 5月,入唐の旅に上る。12月に長安に入る。 | 31才 |
806年 | 大同元年 | 長安を離れ,帰国の途につく。 | 33才 |
818年 |
弘仁9年 |
満濃池決壊。築池使の路真人浜継が3年がかりで修復を図るも成功せず。 | 45才 |
821年 | 弘仁12年 | 満濃池修築。6月からの3ヶ月で完成させる。 | 48才 |
朝廷から派遣された空海を迎えたのは豪族矢原正久であり,当時池別当であった矢原氏は自宅の邸内に空海の居館を新しく建て,空海の下向を待ったと記されている。この矢原正久の邸跡の入口を示す古い石碑が残っている。
矢原家々記によれば,弘仁十二年4月20日,空海は沙弥童子(新弟子)4人を従えて,池下区の矢原正久邸に来着された。
そのときの模様を伝える記事によると,正久氏が邸のはずれの岩のところに出て,お迎えした際,空海は早くも笠をおとりになって,「これからお世話になります。池が損じてはさぞお困りのことでしょう。早く工事を進めるつもりです。よろしくお願いします。」とていねいに挨拶されたとのことである。正面からおはいりになるときも,笠を持ってはいられたというので,それ以来矢原家の門をくぐるときは,どんな高官でも笠をとってはいることになったという。
空海が矢原家への手みやげとして持ってきたのがカリンの苗木であった。カリンはこの頃,日本では非常に珍重されていたとのことで,空海はカリンの苗木数本を持参し,矢原邸の庭に植樹されたとのことである。初代のカリンの木は一抱えあまりにまで成長し,枯れ木は大正の末まで残っていたとのことである。現在,県指定自然記念物とされている「矢原邸の森」の一画に,空海手植えのカリンの2代目とされる大きなカリンの木がある。
「満濃池関係資料集」によれば,空海が手植えしたカリンは,もともとインドのアンラ宮殿に繁茂していたものを唐に移植し,空海が帰朝のときに持ち帰って,京都神泉宛に植樹したものだったという。つまり,まんのう町に持参される前に京都に持ち込まれていたのである。
空海は,工事終了後,真野池(満濃池)の安泰を願い,池の西方の小高い丘の上に神野寺を建立した。神野寺はその後矢原氏の奉仕によって繁栄していたが,大正の兵乱により焼失し,現在の神野寺は昭和7年に建立されたものである(「満濃池史」より)。
満濃池を見下ろす空海の石像はこのお寺の横に立てられている。